ご飯にかけるおかずになった日本納豆に対して、アジア納豆は、おかずではなく調味料として使われている。そこで、東南アジア大陸部では、なぜ日本のように味噌や醤油のような調味料が発達せずに納豆が調味料として使われるようになったのかを論じ、その後に実際に東南アジアで調味料として納豆が使われる納豆の事例を見ていくことにしよう。東南アジアでは、センベイのような形、碁石のような形、厚焼きクッキーのような形の納豆がつくられていて、それらはいずれも炒め物、煮物、スープに入れられ、調味料として使われている。また、ラオス北部やタイ北部では、納豆は麺のスープとして欠かすことの出来ない出汁になっている。さらに、ラオス北部ではスイーツにも納豆が利用されていた。しかし、東南アジアの納豆は調味料であるがために、他の調味料との競合にさらされ、納豆の利用が衰退しつつある地域も見られる。
もくじ
コウジカビと枯草菌
日本の糸引き納豆が調味料として利用されていない理由のひとつとして、麹づくりの技術を用いた醬が古代から生産され、そこから派生した味噌と醤油が中世には成立したことが挙げられる。したがって、あえてネバネバと糸を引く納豆を調味料として使う必要性が見出せなかったと思われる。
麹は、味噌、醤油、酢などの調味料、さらに日本酒、焼酎、みりんなどの酒類の品質を決める重要な役割を担っており、麹づくりには日本独自の様々な工夫が見られる。麹づくりにおいて、もっとも注意しなければならないことは、空気中に飛散している常在細菌である枯草菌(納豆菌)の汚染を避けることである。明治時代の記録によると、 溜 味噌をつくる生産者は、大豆の蒸煮を2度行っていた(竹内 1988)。休眠中の枯草菌の芽胞を発芽させるために一度熱を加えて放置し、芽胞が発芽した後に再度加熱することにより枯草菌を滅菌させていたのである。これは現在、「間断殺菌」と呼ばれる処理で、麹をつくる職人は、芽胞を形成し様々なストレスに対して耐久性を有している枯草菌の特徴を経験から認識していたようだ。また、麹をつくる季節や温度にも気を使っており、30℃以上になる夏季には枯草菌による汚染が著しいため、かつては麹を仕込みは冬や春の始めに行われていた(伊藤・童 1994)。麹づくりには、様々なノウハウが存在していたことが分かる。
コウジカビで仕込む豉のつくり方は、中国で最も古い農書『 斎民要術 』(530〜550年頃)では、次のように詳細に記されている。
おおむね常に温度は人の 腋 ていどにしようとするのが 佳 いとされる。若し(冷熱)いずれも調わない場合は、寧ろ冷えすぎるほうが良いのであつて、熱すぎるのはまずい。冷えれば 穣 覆すると、暖かさをとりもどせるが、熱いと臭敗してしまう。(中略)豉づくりの法はうまくゆき難く、壊れがちなものであるから、必ず細かく意をくばり、常に一日に再度これを看るようにする。 節 を失って熱くしすぎると、臭く 爛 れて泥状になり、 猪 ・ 狗 も食わない。(賈・西山・熊代1976, pp. 103-105)
寒ければ藁で覆えば良いが、熱いと腐敗するので、細かく温度管理をするように注意が促されている。腐敗した状態を「泥状」と表現し、失敗した豉からは、ブタもイヌも食べないような強烈な臭いが放たれると書かれている。それは豉が枯草菌に汚染されて納豆になってしまうことである。すなわち、昔か中国でも、 豆醬 や豉の仕込みでは、枯草菌の汚染をいかに防ぐかが大きな問題であり、コウジカビを用いた豆麹づくりの歴史は枯草菌との戦いであった。
調味料になったアジア納豆
空調機など存在しなかった時代、湿潤温暖な熱帯モンスーン気候の東南アジアで、コウジカビによる大豆発酵食品をつくるのはかなり難しかったと思われる。よって、豆醬や豆豉のようなコウジカビを使った大豆発酵食品は、中国と同じ温帯の日本や朝鮮半島などには伝播したが、熱帯モンスーン気候の中国南部には、温度管理が難しかったので伝わらなかった。したがって、私は「穀醤卓越地帯」南端に位置する「アジア納豆地帯」では、麹菌で発酵させた豆豉ではなく、より簡単につくることができる枯草菌で発酵させた納豆が生まれ、それが調味料として利用されることになったと考える。
類似の考え方は、すでに吉田集而によって提示されている。吉田集而は、中国で茹でたダイズにコウジカビを接種した発酵大豆をつくる過程で、温度管理に失敗してコウジカビではなく枯草菌がついてしまったものが現在の納豆だと述べている(吉田 1993)。納豆の起源地は、栽培大豆の起源地である中国江南地域で、そこから西は東南アジアとヒマラヤへ、また東は朝鮮半島と日本へと伝播したとする。
しかし、栽培大豆の起源地が未だに定まっていないので(阿部・島本 2010)、提示された納豆の起源地については議論の余地はある。また、納豆が一つの起源地から伝播したという点に関しても説得力ある説明はできない。コウジカビの接種に失敗して納豆が生まれたという説もあり得るが、『斎民要術』でブタもイヌも食べないと述べられた豆豉の失敗作が納豆になったとは考えられない。私は、現在見られる「アジア納豆」の製法を見ると、失敗した豆豉を食べ始めたのではなく、良い味の納豆ができるような枯草菌を積極的に選んでつくり始めたものだと考える。
それぞれの気候条件下で最も適したうま味調味料が発達した結果、温帯の東アジアには麹菌を接種した大豆発酵食品が発達し、「穀醤卓越地帯」南端にあたる亜熱帯の「アジア納豆地帯」では、厳しい温度管理が不要な枯草菌を用いた納豆が発達した。ただし、「アジア納豆地帯」では、調味料として納豆だけが生産されている訳ではなく、温度管理ができるようになった現在では、コウジカビで発酵した大豆発酵食品も生産されており、穀醤と納豆の両方が生産される地域となっている[1]。
すなわち、温帯の東アジアでは温度管理ができる環境であったため、コウジカビで発酵させた味噌や醤油などの穀醤が発達し、一方の熱帯モンスーンの東南アジアでは厳しい温度管理が不要な枯草菌で発酵する納豆が発達した。しかも都合が良いことに、枯草菌には日本で納豆をつくるときに使うような糸が引く納豆菌と呼んでいる種類もあれば、糸が引かない種類もある。東南アジアやヒマラヤでは、納豆をつくる時には、ほとんどの地域で糸が引かない種類の枯草菌が選ばれており、発酵させた後に日本の味噌のように潰して加工することは難しくない。そして、東南アジアでつくられた納豆は、『斎民要術』に書かれたようなブタもイヌも食べないような臭いを放つ種類の枯草菌ではなかった。だから、枯草菌を使った納豆が調味料として利用されるようになったのであろう。
では、現在の東南アジアでは、どのような調味料納豆がつくられ、それらがどのように使われているのか、実際に見ていくことにしよう。
タイ・メーホンソン県のタイ・ヤーイがつくる調味料納豆
タイ北部の市場には、どこでも乾燥センベイ状の調味料納豆が売られている。本章では、日常的に納豆をつくっているタイ系民族のタイ・ヤーイの人々が多く住むメーホンソン県を事例に納豆の生産と利用を紹介していきたい。タイの納豆は「トゥア・ナオ」と呼ばれていて、トゥアは豆、ナオは発酵している状態のことである。タイ以外でも、ラオスやミャンマーなどのタイ系民族が住む地域でも同様に「トゥア・ナオ」と呼ばれる。
最初に紹介するのは2009年9月に訪れたパーイ郡トゥンヤオ地区トゥンポーン村である。納豆をつくって50年ぐらいになると言っていたトゥンラーさん(63歳)の家では、木の板を蝶番で繋げた道具を使って、挽肉用のミンチ機で潰した納豆を平たく加工していた(図1)。潰した後は、竹で編んだ大きな網の上に並べて日当たりの良い場所で乾燥させる(図2)。
トゥンラーさんは、プラスチック・バックに2日間茹でた大豆を入れて発酵させていた。かつてはチークの葉を竹カゴに敷いて発酵させていたが、プラスチック・バックでも味は変わらないし、どちらも糸引きはないという。それをどうやって使うのかを尋ねると、スープに入れると言う。また、タイ・ヤーイの伝統的な麺料理である「ナム・ンギャオ」に納豆は欠かすことができないと教えてくれた。ナム・ンギャオとは、固めた豚の血、豚肉、トゥアナオで出汁を取り、乾燥させたインドワタノキ(Bombax ceiba)の花の雄しべ「ギウ」を入れたスープである。しかし、2009年9月の調査では、事前に調査者に納豆料理をつくってもらうことを依頼していなかったので、納豆のスープもナム・ンギャオも食べることが出来なかった。しかし、3ヶ月後の2009年の年末に再度タイで調査を行う予定があったので、一緒に調査を行っていたチェンマイ大学農学部のカノック先生に、ナム・ンギャオとタイ・ヤーイの人たちの伝統的な納豆料理を食べる機会をセッティングしていただくことにした。
予定通り2009年12月末にタイ北部を再び訪れると、カノック先生がチェンマイ市内にあるナム・ンギャオの店に連れて行ってくれた。その店のナム・ンギャオには、大量のトウガラシが入っており、すごく辛かったが、辛さの中に納豆のうま味が感じられ、クセになるような味であった(図3)。
インドワタノキのギウは、特に味や香りがするわけではなく、シコシコするような固めの食感がたまらない。これに合わせる麺は、「カノム・ジーン」と呼ばれる発酵米麺である。カノム・ジーンは、米粉を発酵させたものを押し出して、お湯で茹でてから冷水で冷やした麺である。発酵米麺のカノム・ジーンは、東南アジア大陸部各地で食べられており、ラオスでは「カオ・プン」、ミャンマーでは「モヒンガー」、ベトナムでは「ブン」、そして中国では「 酸浆米线 」と呼ばれる。図4は、東北タイのナコーンパノム県で調査を実施した時にカノム・ジーンの生産現場で食べたものであるが、スープはトウガラシと淡水魚を発酵させた塩辛である「パデーク」の汁だけというシンプルなものであった。
タイやラオスでは、カノム・ジーンのスープとして、ココナツミルクをベースにしたレッドカレーやグリーンカレーのような味付けのものが使われることが多いが、タイ北部では、納豆とギウが入っているナム・ンギャオがタイ・ヤーイの名物麺料理として知られている。
チェンマイでナム・ンギャオを堪能した後に、納豆を使った料理を調査するためにメーホンソン県クンユワム郡ムアンポーン地区ムアンポーン村のラヴィーワンさんの家を訪ねた。ラヴィーワンさんは、水田の乾季裏作で大豆も自ら栽培していた。自家栽培した大豆を現地で「トゥーン」と呼ばれるフタバガキ科(Dipterocarpus tuberculatus)の葉を竹カゴに敷いて、3日間発酵させた納豆をミンチし、ニンニク、トウガラシ、レモングラス、塩を混ぜ合わせ、それを天日で乾燥させたセンベイ状納豆をつくっていた(図5)。調査当日は、たくさんの料理を提供していただいたが、調味料として納豆を使っていた料理を2つ紹介しよう。1つ目は、炙った乾燥センベイ状納豆を石臼で叩いて粉末状にした「ナムプリック・トゥアナオ・ポン」である(図6)。
これは、茹でた野菜などに付けて食べる粉末調味料として使われる。2つ目は、各種の香辛料と塩が混じった乾燥センベイ状納豆を出汁として使った野菜スープ「ゲーン・パック」である(図7)。
これは、まさしく納豆汁であるが、日本の納豆汁とは違って味噌を入れずに魚醬を入れるので、あっさりしたスープに納豆が隠し味のうま味調味料として加えられていた。日本でも間違いなく受け入れられるような味である。
ラオスの絶品米麺「カオソーイ」と納豆スイーツ「カオレーンフン」
ラオスでもタイと同じくタイ系の民族が納豆「トゥア・ナオ」をつくっている。ラオスにおける納豆生産の中心地は、タイ・ヌアとタイ・ルーの人たちが多く住む、北部ルアンナムター県北西部のムアン・シンである。2007年に実施した調査では、ムアンシン地区4村で納豆のつくり方を調査したが、どの生産者も茹でた大豆をプラスチック・バックに入れて、風通しの良い高床式の家の下に置いて2日間発酵させだけで、菌の供給源は何も入れていなかった。糸は引かないが、味は日本の納豆と同じである。発酵後の納豆は杵と臼で潰し、その時に塩とトウガラシを混ぜ合わせる(図8)。納豆は、ひき割りの状態で地元の市場で販売する。どの生産者も乾燥センベイ状の納豆は、注文があればつくると言うが、ほとんどつくっていなかった。
ムアン・シン地区での調査を終え、乗り合いトラックで県庁所在地のルアンナムターに戻る途中、調査を行った生産者の一人であるポームさんが、そのトラックに乗り込んできて、ひき割り状納豆が入った50キログラムの袋を4つトラックに積み込んだ(図9)。ラオス北部各地から商人が納豆を求めてやってくる県庁所在地ルアンナムターの市場で売るのだと言う。
200キログラムもの大量の納豆は、わずか3〜4日で売り切れるらしい。私がムアン・シン地区で訪れた4村だけで、少なく見積もっても50世帯ぐらいは、販売目的で納豆を生産しており、それらの世帯が地元のムアンシンや県庁所在地のルアンナムターで毎日納豆を売っている。
いったい、ラオス北部では、この大量の納豆をどうやって消費しているのだろうか。ルアンナムターの市場で図10のように洗面器のような容器に納豆を山盛りにしている小売り業者に尋ねたところ、ラオス北部各地から商人が定期的に「カオソーイ」に使うための納豆を買い付けに来るのだという。カオソーイとは、モチモチした太い米麺に、豚挽肉、ひき割り状納豆、唐辛子、ニンニク、シャロット、塩、油、鶏だしなどを混ぜて炒めたものがトッピングされているラオス北部のご当地麺である(図11)。
ラオス北部を調査すると、地域によって、また店によってさまざまなカオソーイがあり、行く先々でそれを食べ比べるのが私の密かな楽しみとなっているが、2015年くらいからは首都ヴィエンチャンでもカオソーイを出す店が増えてきた。あっさりした鶏ガラスープに、納豆と米麺の組み合わせは絶品で、見た目ほど辛くなく、外国人観光客にも大人気の麺料理である。ラオスの納豆は、麺のトッピングという調味料的な利用によって、その需要が支えられていると言っても過言ではない。
納豆の利用は麺の調味料に限らない。ラオス北部で食べられている「カオレーンフン」という米を原料にしたスイーツにも納豆が使われている(横山 2014, pp.113-114)。2019年9月にラオス北部のルアンパバーンを調査した時に、カオレーンフンを調べることができたので、ここで詳しく紹介しよう。
カオレーンフンは、米粉、重曹、水を混ぜてドロドロするまで1時間ぐらい煮詰める(図12)。その後、冷やすと固まるので、それを適度な大きさに切って、酸っぱい汁に絡めて食べる。
食べるときには、砂糖、味の素、塩、粉末トウガラシ、ピーナッツ、そして納豆を自分の好みで入れる。私は、さらに蒸かしたモチ米を干してから揚げた「カオコープ」をトッピングしてみた(図13)。
カオレーンフンに使われている汁の酸味は、現地でソム・ポーンとかソム・ポーイと呼ばれているマメ科アカシア属(Acacia concinna DC.)の葉から抽出しており、ラオス料理では、酸味を出すためによく使われる植物である(図14)。
この店で使われていた納豆は、すでに塩とトウガラシが混ぜられたひき割り状納豆で、ムアンシンでつくられたものだと言う。1日に30〜40杯を売ると言っていたので、納豆もかなり消費されているようだ。ラオスのひき割り状納豆は、カオソーイ以外にもスイーツの調味料として使われているのは驚きである。
ミャンマー・シャン州とチン州南部の調味料納豆
ミャンマー・シャン州には、どこに行っても納豆がある。納豆は、ビルマ語では「ペーボウッ」、タイ系のシャンの言葉では、タイやラオスに住む人たちと同じく「トゥア・ナオ」と呼ばれる。2009年8月に、シャン州北部の中心都市であるラーショー(ティエンニー郡区ナウ・オン村)を通りかかった時に庭先でタイのタイ・ヤーイと全く同じく、竹で編んだ網の上で納豆を干しているのを見つけた(図15)。
国によって民族の呼称は異なるが、タイのタイ・ヤーイと呼ばれる人々とミャンマーでシャンと呼ばれる人々は同じ民族である。事前にアポイントを取っていなかったが、生産者のドータンラーさん(55歳)に話を聞かせて欲しいと頼むと、快諾していただいた。ドータンラーさんの納豆のつくり方もタイのタイ・ヤーイの人たちと同じで、プラスチック・バックで煮豆を発酵させ、納豆を潰すときにニンニク、トウガラシ、塩を混ぜてから天日干しする。ただし、タイとは違って、潰す時に挽肉用のミンチ機は使っておらず、自分たちでつくったという納豆専用のミンチ機を使っていた(図16)。
これまで、何十か所も納豆の製造現場を調査してきたが、独自で納豆を潰す機械を開発していたのは、後にも先にもこの村だけであった。納豆づくりが古くからこの村の人たちの生業として根付いている証であろう。そうして潰した納豆は、タイのタイ・ヤーイと全く同じ木製の板を蝶番で繋げた道具を使ってセンベイ状にしていた。残念ながら、別の目的地に向かう途中に立ち寄ったので、納豆料理を作ってもらう時間が無かったのだが、乾燥センベイ状納豆は、潰して粉状にして、汁物や炒め物に入れて調味料として利用すると教えてくれた。
この2009年の調査をきっかけに、本格的にミャンマーで本格的に納豆の調査をしたいと思い、研究仲間である立命館大学の松田正彦教授から調査許可、通訳、車の手配をしてもらえるミャンマー国内の旅行会社を紹介して頂いた。それから、その旅行会社と何度も打ち合わせを重ね、ようやく2014年にカチン州とシャン州で納豆を調査するための準備が整った。ところが、その旅行会社から、チン州でも納豆をつくっているという情報が得られたので、2014年3月にカチン州で調査を行う日程にチン州での調査を入れることになった。私が訪れたチン州南部ミンダッ県周辺で納豆をつくっていたのは、ムン・チンと呼ばれるチベット・ビルマ系言語を話す人々である。彼らは、納豆のことを「シャンパイ」と呼んでおり、シャンは「シャン地方(人)の」という意味で、パイは豆のことを意味する。大豆のこともシャンパイ、納豆のこともシャンパイと呼び、大豆の発酵の有無で呼び分けない。おそらく、大豆はシャン地方から入ってきたもので、納豆も同じくシャン地方から伝えられたものだと推測できる。
ミンダッの郊外に位置する村で見かけた女性に「納豆をつくっているか」と聞くと、すぐに納豆を持って来てくれた。納豆の生産者は、リッコン村のブーパイさんである(図17)。年齢は「知らない」と言う。
現地を案内してくれたこの地域の実力者のアウンさんによると、ブーパイさんの顔には、チン州南部のチン女性特有の入れ墨が顔に見られるので、50歳代後半から60歳代前半ぐらいではないかと言う[2]。ブーパイさんが持って来たのは、バナナの葉を鍋に敷いて発酵させている途中の納豆と手で形を整えただけの厚焼きクッキーのような形状の乾燥納豆であった(図18)。
このクッキーのような乾燥納豆は、木の臼で潰して、塩とトウガラシを入れて炒め物や煮物に入れるという。ムン・チンの人たちがつくる加工納豆は、厚焼きクッキーのような形状が一般的で、その後に訪ねたアウンさんの農場で働く労働者の女性の家でも、囲炉裏の上で厚焼きクッキーのような納豆が燻されていた(図19)。
燻すことで1年ぐらい保存できるという。燻した厚焼きクッキーのような乾燥納豆は、崩してから野菜の煮物に入れる調味料として使うと言う。そのほかに、燻した乾燥納豆とトウガラシ、塩を一緒に混ぜて、ご飯にかけてふりかけのようにして食べることもあるという。おそらく、厚焼きクッキーのような乾燥納豆は、現在見られるような道具を使って薄くする乾燥センベイ状納豆以前に見られた古い形の納豆だと考えられる。シャン州から納豆が伝わったチン州には、かつてシャン州でつくられていたと思われる古い形状の納豆が残っているのである(横山 2014, pp. 293-294)。
2014年9月、念願が叶ってシャン州の州都タウンジーの調査を実施することになった。タウンジー最大の市場では、乾燥センベイ状納豆が多くの店で売られていた(図20)。その中で、私の目を引いたのは、これまでに見たことのないような碁石のような形の小さな乾燥納豆であった(図21)。
その納豆を売っていたのは、タイ系民族のシャンではなくチベット・ビルマ系民族のパオの人で、納豆はパオ語で「ベーセィン」と呼ばれていた。この碁石のような納豆を調べるために、パオの人たちが納豆をつくっているタウンジー北部のヤッサウ郡区テーカン村を訪ねた。村の多くの家では、碁石のような乾燥納豆を竹製のザルに並べて天日乾燥しており、納豆の臭いが辺りに漂っていた(図22)。
そのつくり方は、目の細かい竹カゴに茹で上がった大豆を直接入れ、納屋のような場所で2日間発酵させ、潰してから塩を入れて碁石のような形に整えて天日で1日干すというものであった。発酵後には、弱い糸引きがあるという。そのままでも3ヶ月保管でき、密閉した容器に入れておけば1年は持つという。碁石のような乾燥納豆は、私がこれまで調査をしたところ、ミャンマー・シャン周辺のパオの人たちだけのオリジナルな形状である。その使い方は、砕いて調味料としてスープに入れたり、炒め物に入れたりして使うという。
かつて、シャン州南部の州都タウンジーで大豆の調査を行った吉田よし子は、この地を「納豆センター」と呼んだ(吉田 2000, pp. 71-74)。しかし、実際は州都タウンジーだけでなく、シャン人が住んでいる地域には、シャン人以外の民族も納豆をつくっている。また、シャン人から伝えられた納豆を現在に至るまでつくり続けているチン州南部のような周辺地域を含めると、シャン州およびその周辺は、納豆研究者にとって「納豆の聖地」のような場所だと感じる。
納豆と他の調味料との競合
東南アジアでは、これまで魚醤のような魚の発酵調味料が卓越する地域とされてきた(石毛・ラドル 1990, pp. 354-359)。納豆が調味料として使われている東南アジア大陸部のミャンマーでも、シャン州盆地部の市場では魚介類でつくられた魚醤や塩辛の「ンガピ」が普通に売られていた(図23)。さらに糸を引く粒状納豆をつくるカチン州でも、州都ミッチーナの市場で魚やエビでつくられたンガピを専門に扱う商人が複数見られた(図24)。ミャンマーに限らず、タイ、ラオス、ベトナムでも市場に比較的容易にアクセスできるような場所では、発酵大豆の納豆と魚の発酵調味料の両方が市場で簡単に手に入る環境にある。
もともと、東南アジア大陸山地部に住む人々は、魚を発酵させた魚醤や塩辛などを利用していなかった(森枝 2005, p.218)。特に、ミャンマーでは、海の魚介類を原料とする工場でつくられた魚醤は、1956年に国営工場がつくられてから流通したものだという(森枝 2005, p.235)。同じような話は、2016年にタイ東北部平原のナコーンパノム県を調査した時にも聞かれた。タイ東北部にはラオスと同じタイ系のラーオの人々が多く住むが、納豆は全くつくらず、彼らは川魚を発酵させた「プラー・ラー」(ラーオ語ではパー・デーク)とよばれる塩辛から出る汁「ナム・パー・デーク」を主たる調味料として使っている。現在、東北タイでも工場で瓶詰めされた魚醤「ナム・プラー」(ラーオ語ではナム・パー)を調味料として使っているが、タイ南部の沿岸部の工場で生産された魚醤が内陸部にも流通するようになったのは1970年代以降だと言う。おそらく、タイ北部の納豆を調味料として使っている地域でも、魚醤が一般的になったのは同じぐらいの時期だと予想される。
しかし、山地部で市場へのアクセスが悪いような地域では、納豆が魚介類の発酵調味料に置きかわっているようだ。チン州南部ミンダッ県レーリン村という市街地から30分ほど山奥に入ったところで、バナナの葉に煮豆を包んで納豆をつくっていたムン・チンのナインワーさん(73歳)は、祖父母の時代から納豆を調味料として炒め物や和え物に混ぜて使ってきた(図25)。
しかし、彼女は「最近は魚やエビのンガピが安く買えるから、この村で納豆をつくる人は少なくなった」と言う。山岳部に位置するレーリン村では、焼畑で陸稲をメインに栽培し、陸稲の間に大豆を含む各種の豆類や野菜を間作する自給的な農業を行っている。かつては、塩とトウガラシしか入手出来なかったので、料理の味付けにうま味を加えるために、たとえ大豆が少量しか収穫が出来なくても、手間暇をかけて納豆をつくっていた。しかし、チン州南部ミンダッの市場では、納豆はほとんど売られていない。納豆を自給しなくなりつつある現在、入手可能な調味料はンガピだけという状況になっている。
魚醤圏とされている東南アジア大陸部であるが、納豆をつくっている地域に海の魚介類を原料とする魚醤が入って来たのは約半世紀前であり、その歴史は浅い。しかし、納豆を調味料として使っていた平野部や盆地部では、納豆に加えて魚の発酵調味料が後から加わり、それらが共存するようになった。そして山地部では伝統的に調味料として使われてきた納豆が徐々に魚の発酵調味料に置きかわろうとしている。
もう一つ、シャン州タウンジーの市場で撮影した写真を見て頂きたい(図26)。
碁石のような納豆やセンベイ状の納豆と一緒に「味の素」と「味王」という商品名のうま味調味料のグルタミン酸ソーダ(MSG:monosodium glutamate)が並んでいた。「味の素」は、日本の味の素株式会社が1962年に戦後初めての海外生産拠点としてスタートしたタイ現地法人が生産するMSGである(平松2011)。タイで生産されたMSGは、安価で手軽に使えるうま味調味料として東南アジア各地に普及した。図26で「味の素」と共に売られている「味王」も東南アジア各地で見られ、台湾企業がタイで生産しているMSGである[3]。すなわち、納豆とMSGが同じ売り場に並んでいることから考えても分かるように、東南アジア大陸部では、納豆はMSGと同じうま味調味料という位置づけなのである。
我々日本人は、醤油をかけて、ご飯と一緒に食べるものが納豆だと思っているが、もっと多様な納豆の利用方法が東南アジアには残っている。そして、アジア納豆は調味料として使われているため、MSGと同列のものとして扱われ、さらに魚介類の調味料に置きかわろうとしている地域も見られるのである。
【第8回終わり】
写真提供:著者(横山 智)
Learning from the fields(横山智 個人サイト)
教員詳細:横山智(名古屋大学教員プロフィール)
文献
阿部 純・島本義也(2010)「大豆の起源と伝播」, 喜多村啓介他編『大豆のすべて』サイエンスフォーラム, 3-12.
石毛直道・ケネス=ラドル(1990)『魚醬とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化―』岩波書店.
伊藤 寛・童 江明(1994)「味噌, 醤油の微生物」『日本食品微生物学会雑誌』11(3), 151-157.
賈 思勰・西山武一・熊代幸雄訳(1976)『校訂譯訳註 斎民要術 下(第3版)』アジア経済出版会.
竹内徳男(1988)「豆味噌の製造と品質特性」『日本醸造協会誌』83(2), 105-111.
平松茂実(2011)「味の素株式会社の戦後のグローバル化経営」『経営史学』46(3), 3–29.
森枝卓士(2005)『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー(世界の食文化4)』農山漁村文化協会.
横山 智(2014)『納豆の起源(NHKブックス1223)』NHK出版.
吉田集而(1993)「大豆発酵食品の起源」, 佐々木高明・森島啓子編『日本文化の起源―民族学と遺伝学の対話』講談社, 229-256.
吉田よし子(2000)『マメな豆の話―世界の豆食文化をたずねて(平凡社新書38)』平凡社.
脚註
[1] のう地「アジア・ニッポン納豆の旅:第1回 はじめに〜納豆食文化を探す旅へ」(http://knowchi.jp/archives/787)の図2を参照のこと。
[2] チンの人たちが住む地域では、かつて女性の顔に入れ墨を入れる風習があったが、1970年代以降に生まれた女性には入れ墨が入っていないということで、50歳代後半から60歳代前半ぐらいだと考えられる。
[3] 味王 Ve Wong(https://www.vewong.com/)。